「ハァ?」 口から零れた疑問符に、自問する。 このセリフ、この相手に対して口にしたのは生まれてから何回目だ? 「いいじゃん、二日ぐらい。あんた暇でしょ?」 反省の気配すらない母親の口調。 俺は一体いつまでこのワガママに付き合わされるんだろう? 「勝手に決めんな。なんで俺が」 いや、まぁ確かに予定は入ってないんだけど、この態度では反抗のひとつもしてみたくなる。 母親は、むぅ、と小さくうなると、 「じゃあ『貸し』ひとつ消化していいから」 不服そうに、そう提案した。 「オーケー、マム」 現金にも即答してしまう自分が悲しかったが、まぁいい。 俺にとって何より恐ろしいのは母親に対する「借り」。わずかとは言え、こんなことくらいで身軽になれるなら安いもんだった。 借りひとつと引き替えになったのは、二日間の労働。 十二月二十三、二十四日。ケーキ屋でのアルバイト。 当然給料は別に出る。 お気に入りの店でたまたま人手問題を耳にしたらしい我が家のボスは、「じゃあ息子を派遣するわ」なんて勝手に話を決めてきたらしい。 あまりの横暴さに渋ってはみたものの正直なところ、アルバイトを許してもらえない俺としてはむしろラッキーだ―――と、思ってた。条件を聞くまでは。 「毎年なんだけど、うちの店、二十三日から三日間だけ特別にこんなのを売るのよね」 バイト予定の十日前。顔見せ程度に説明を受けに行くと、小柄な奥さんに示されたのはラッピング済みの小さなチョコレートマフィン。パウダーシュガーの隙間から褐色の肌が覗く。 天下の「カプリチオ」がなんでこんな地味なものを? と不思議な顔をしていると、店の主人と奥さんのなれそめなんかを説明代わりに聞かされた。……が、途中から聞く気をなくしてあまり覚えていないのでその辺は割愛する。 まぁ、とにかく、俺の役目は奥さんの妹が手伝いに来るという二十五日を除く二日間、このクリスマスマフィンを売ること、だった。 「店は九時までだけど、これさえ完売したら帰ってくれていいから。お給料は日給で払うわ」 「へぇ、じゃあそれさえ売り切ればとっとと帰れるわけですか」 「そ、なかなか美味しい条件でしょ?」 確かに。他のケーキをそっちのけで、とにかくこれを売りさばけばいいわけだ。日給一万の好条件なうえ数時間で帰れるとしたら、これほど美味しい話があろうか。 「で、いくつ売るんですか?」 俺の質問に、奥さんはにっこり微笑んで、驚くほど澄み切った声で答えた。 「一日七百五十個」 …………… 今、なんて? 「二日でたったの千五百個よ。……頑張ってね、藤原くん」 サンプルにもらったマフィンは、確かに味はよかったが、驚くほど甘くなかった。材料には最近よくコンビニで見るようなカカオの濃いチョコを使っていて、上に振りかけられたパウダーシュガー以外、砂糖はほんの少ししか使われていないらしい。 試しにシュガーのかかっていない部分をちぎって食べてみる。やっぱり全然甘くない。 うん。まるで今日、俺が目にした世の中のよう。…わかってたけどさ。 この小さな町であんなシンプルなマフィンを七百五十個も売れと? 『毎年結構残るけど、今年は大丈夫ね。君みたいな子が売り子してくれるなら』 『店先に出るともっと売れるんだけど、寒いのよね』 言われたセリフが次々と脳内でこだまする。あの奥さん、狸だ。 バイトの子が毎年風邪引いちゃうのよ、なんて困った笑顔。 それはつまり、こんな彼女の心の中をキレイに物語っている。 『店内で売り切れる自信なかったら、とっとと店先に出てよね』 まぁ、なんて言うか。 これで年末の俺の風邪引きは確定したかに思えるのだが。 こっちもそう簡単に負けを認めるわけにはいかない。 「……やってやろうじゃねぇか」 決戦の日まであと十日。 俺は速やかに、計画を実行に移した。 夜の間に雪が積もっていた。 十二月二十五日。 制服にコートを羽織ってボタンを留めながら外に出てみれば、辺りは一面真っ白で眩しさに驚く。すっかり晴れ上がった空の下拡がるのは、まさに白銀の世界。 「わぁ…」 思わず歓声が漏れた。昨日の帰りにはまだ降ってなかったのに。 玄関を開けた途端流れ込んできた冷たい空気に、手袋にくるまれた両手で頬を覆う。 踏み出すたび、サクリと小さな音を立てる道路の雪は、深さ五センチほど。飛び跳ねるように、より深さのない轍まで足を移す。 時刻は十時十五分前。予定の時間まで、まだ少し時間がある。小さい子みたいに、靴の下で雪が圧縮される感触を楽しみながら、のんびりと歩き始めた。 そして、四軒目の家の前。 「ん?」 パタン、と玄関のドアを閉めて出てきた少年と目があった。 「―――……っ」 なんでこういうタイミングで鉢合わせするんだろう。 「おはよ。昨日はお疲れっ」 慌ててごまかすもむなしく、 「お前、朝っぱらから何やってんの?」 開口一番にそんなことを言われて頬に血がのぼる。 「いい年して雪遊び?」 「……うるさいな。ちょっと童心に返ってただけじゃん」 「あっそ」 憎たらしい嘲笑を残して、目の前のコート姿はさっさと歩き始めた。 「……あれ? 公隆、お前も学校?」 コートの裾から覗く制服のスラックスに、思わず問う。 「霧島のじじいに呼び出し食らった」 「あぁ、それはご愁傷様」 苦笑混じりに出てきた「霧島」というのは我が校国語科の先生で、公隆の所属する部の顧問。似合わないことこの上ないが、彼は一応「文芸部」に所属している。 と言ってもその実態は部員一名で活動実績ゼロ。公隆自身、知り合いの先輩に泣きつかれて仕方なく籍を入れただけの、実質帰宅部と同じ、名前だけの部だった。そんな状態でなぜ存在自体がなくならないのかというと、……要するに顧問の小間使いというか、手助けする役割を当てられているから。最近の主な仕事は、文集関連手書き原稿の打ち直し。 とても穏やかで優しい霧島先生は、ほとんどパソコンが使えない。超鈍足ながら途中までは自分でやろうとするものだから、「手伝ってくれないかな?」なんて控えめな言葉で彼に頼み事をする頃には、大抵手遅れ寸前の状態になっているとかいないとか。 「…お前は部活?」 なんとなく哀れみの目を向けていると、彼は少し不思議そうな顔でこちらの服装を見る。 公隆と同じく制服にコート姿。ただ、学生鞄片手の彼とは違って、今日の私は手ぶらだ。持ち物はコートのポケットに入っている財布と携帯だけ。 「いや、今日は休み」 「……じゃあ、なんでこんな日にわざわざ」 酔狂な、と眉を寄せる彼の顔に、それは、と答えようとした瞬間、 「っ!!」 ―――頭に衝撃が走る。 「なっ!?」 ぶつかってきた何かに押される形で俯いた私の耳に、公隆の驚く声が響いた。 「―――………」 乱れる髪と一緒にバラバラと落ちてきたのは―――砕けた雪の固まり。 次いで、わずかな痛みと冷たさが認識され始めた。 「おい、悠里。大丈―――、っ!?」 とっさにこちらをのぞき込んだ彼の言葉も途切れる。 「痛(い)って……、ちょっ、なんて遊びしてんだあいつら!」 後方に視線をやりながら、焦ったような声を漏らす公隆。 雪玉の飛んできたその方向には数人の子供の声。聞き覚えがある、近所の悪ガキども。 知らず、笑みが漏れた。 愛すべき目標は大胆にも隠れてなどいないわけだ。 「公隆、」 顔を上げると同時に濡れた髪を払う。 首筋から小さな欠片が服の中に入ったけど、そんなことどうでもいい。 今重要なのは―――腹の中にある悔しさと、怒り。 幸いにも、まだ時間はあるから。 「付き合え」 「何?」 「………しつけだ」 数分後、永沢悠里は正々堂々雪玉で、通行人を襲撃したガキどもを平伏させていた。 二度とこんな遊びはするなと脅迫―――もとい、説教を締めくくった悠里を羨望の眼差しで見送るガキども。いやぁ、もう、俺でも惚れ惚れするほどの男らしさですね、まったく。 まぁ、その件に関してはとりあえず、その後、彼女が近所のガキから姐御と呼ばれるようになったことだけ記述しておく。 再び歩き始めた通学路。ふたりして濡れた手をハンカチで拭いながら。 「―――あ。お前さ、原稿受け取るだけならすぐ終わるよな?」 唐突に訊ねられ、そう言えばさっきの話が途中だったことに気付いた。 「あ? まぁな」 「じゃあさ、ちょっと協力しろよ」 「……何に」 「客の頭数。合唱部のクリスマスコンサート」 「あぁ、なるほど。塔崎(とうざき)から呼び出しか」 納得した。そう言えば小さなポスターがいくつか廊下に貼ってあったっけ。光塔館(我が校)が誇る弱小合唱部の恒例クリスマスコンサート。合唱部員でもあるクラスメイト・塔崎洸香(ひろか)が「休みに入ってからやるもんで客が少ないのよね」とかぼやいていたのを思い出す。 「ってか、アイツいくつ兼部してんの? 珠算部と吹奏楽部にも入ってなかったか?」 「いくつだろうな。私の知ってる限りでは茶道部と華道部にも入ってるよ、確か」 「どうせなら文芸部にも入ってくんねぇかな……俺辞めたい」 俺のセリフに笑いながら、彼女は外していた手袋をコートのポケットから引っ張り出した。 ――― ………!? 手袋に覆われる寸前、ふと目に入った彼女の手にぎょっとする。 左手の中指、雪の光を反射して銀色に輝くそれは、―――どこをどう見ても指輪で。 思わず、その手首を取った。傷のないシルバーリング。本当に輪っかだけのシンプルなデザインで、それでもそこそこ質は良さそうに見える。 俺の唐突な行動に驚き、一瞬訝しげな顔をした彼女は、俺の視線がどこにあるかを悟ると、少し恥ずかしそうに笑った。 「―――……これ、昨日もらったヤツ。似合わないよな」 原稿を受け取ってから、連れて行かれたコンサート会場は校舎最上階のホール。客は俺たちの他に二十人ほどで、ホールは確かにガラガラではあるものの思ったよりも多かった。 ジングルベルや赤鼻のトナカイなんかのメドレーから、アカペラのJoy to the World、Deck the Halls。 なかなか悪くない歌声の中、時折、傍らに座る彼女の方を伺う。 目を閉じて、眠っているんじゃないかと思うほど静かに耳を傾けている悠里。 膝に置かれた左手には、やっぱり指輪が静かな光を放っていた。 正直言って、本当に似合わない。 ――― 意外。そんな物好きがいたなんてなぁ。 計画は面白いほどに成果を上げた。 恐ろしいほどの客が訪れ、クリスマスマフィンは二日とも閉店時間を待たずに完売。 「すごいわねぇ。やっぱり若い男の子がいると違うのかしら。来年もお願いしたいわね」 店先に出るどころか、レジから身動きすら出来ないような大繁盛ぶりに、俺のしたことを知らない奥さんは目を丸くしてそう言った。 「……母親の許可が降りれば、是非」 人の多さにマフィンが売り切れた後も結局手伝わざるを得なくなり、やっと客足が途切れたと思ったら七時を回っていて。ショーケースの中にはほとんど何も残っていなかった。 「じゃあ、俺もうあがらせてもらいますね」 「うん。あ、いや、ちょっとだけ待ってて」 何かを思い出したように奥へ引っ込む奥さんの言葉に従い、俺はレジの椅子に腰掛けてぼんやり天井を見上げていた。 母親の下以外でまともに働いたのも客商売も初めてで、こういうのを緊張の糸が切れたというのか。怒濤の二日間だった。 「ふ―――………」 目を閉じて、静かに長いため息を吐く。 ふいに、店の外に気配を感じた。 カラン、と可愛らしい音を立てて開いた扉の向こう――― 「………何やってんの? お前」 財布を手にポカンとこちらを見ている永沢悠里(お客様)へ、 「いらっしゃいませ」 にっこりとそつのない営業スマイルを向ける。 「お前がここでバイト? 似合わなすぎだな」 「昨日と今日だけだけどな。なんにする? つっても、もうほとんど残ってないけど」 ショーケースを示す俺に、彼女は目を丸くする。 「マフィンも完売?」 「あぁ、それが一番。三時頃だっけな?」 「毎年残ってるのに……やっぱりかぁ」 残念そうに眉を下げる仕草。 「二十五日って数少ないよな。毎年お昼過ぎに完売してるし。今年はもう無理か……」 この三日間限定のクリスマスマフィン。毎年同じ数だけ作っていて、三日目だけは二日分の売れ残りを考慮してかなり数を減らしてある。 そのことを知っている彼女はどうやら古参のファンだったらしい。 ほんの少し、罪悪感が胸を刺す。だって俺が何もしていなければ、彼女はおそらく今この瞬間、目的のマフィンにありついていたんだから。 「……シフォンとアーモンドタルトならいくつかあるけど、どうする?」 「じゃあ、せっかくだしそれ。ふたつずつ」 「はい、じゃあ、千百円」 保冷剤と一緒にケーキを箱に詰めていると、 「ごめんごめん。お待たせ、藤原くん」 慌てたような声が後ろから聞こえてきた。 パタパタと店に戻ってきた奥さんは客がいるのを見て一旦口をつぐみ、 「あ、いいですよ。知り合いですから」 俺を指差す悠里の言葉に表情を崩した。 「これね、藤原さんから頼まれてたの。家族分、持って帰って。お代は要らないから」 お疲れ様、ありがとうね。明日にはお給料用意しておくから。 そう言って、差し出された紙袋を受け取った俺に、二日間だけの雇い主はとても満足そうに微笑んでくれた。 悠里と共に店を出て、帰路につく。 「寒……、これ雪降るかな」 手袋を忘れたらしく、指先に息を吐きかけながら。 身を縮めて空を見上げる彼女がそう呟いた。 「…かもな。嫌だ嫌だ」 「なんで? いいじゃん、ホワイトクリスマス」 「寒いだけだろ。……ってか、お前ってロマンチック風味な言葉、ホント似合わねぇな」 「ぅわ、ムカつく」 そう、絶望的に色気のない彼女。 でも、まぁ、それこそが彼女らしい気もするし。 「ま、いいんじゃね? やっぱ色気より食い気だろ」 ハイ。 笑いを堪えながら、ふくれっ面に差し出してやる。 「え? これ…」 彼女の手のひらにちょこんと乗ったのは、可愛らしい包装のクリスマスマフィン。 「さっき渡されたヤツ。俺の身柄と引き替えに、確保してあったんだと」 予約不可商品なのにずるいよな、と続けて、笑ってやる。 「もらっていいの?」 「いいよ。俺もう食ったし。十日前に」 自分の罪悪感をごまかすように、彼女の頭に手を載せて。 「メリークリスマス。有り難く食え」 恩着せがましいセリフに、彼女はほんのわずかに笑みを浮かべた。 そうだ。あの時は確かに。 ――― 彼女の指に、指輪なんてなかったはずだ。 「じゃあ俺、店寄っていくから」 「あ、私も行く。もしかしたら残ってるかもしれないし」 あるわけねぇだろ。昨日の一個じゃ食い足りないのか。 往生際の悪い少女に、心の中で毒づく。 この販促計画、誰が立てたと思ってんだ。 売れ残り必至のマフィンが両日早々に完売だぞ? 数も少ない三日目(今日)に残ってるわけないだろうが。 かといってそれを口に出したところで、「行ってみなきゃわかんないだろ」と意地になるのは目に見えていたので、俺は彼女がついてくるのを止めはしなかった。 ……あと正直なところ、もう少し彼女と一緒にいて、指輪を与えたその物好きのことを何かしら聞き出したいと思っていたのも、否定出来ない事実なのだけど。 カラン、と音を立てるドアをふたりでくぐる。 店には誰もおらず、閑散としていた。ショーケースには完売のプレートが並んでいて、一見で何も残っていないのだとわかる。 ドアベルの音を聞きつけ、奥の部屋から近づいてくる慌てた足音。 「あ、藤原くん。ちょっと待ってね」 覗いた顔はこちらを確認すると一旦引っ込んで、すぐまた戻ってきた。手には簡素な給料袋。中身は約束の二万よりも多い。 「条件外で随分手伝ってもらっちゃったから、色つけといたの。こんなに繁盛したのも君のおかげだからね」 にっこりと笑う奥さんに、こちらも儀礼的な笑みを返す。 「まだ早いのにもう全部完売ですか?」 「おかげさまでね」 「……それじゃ、俺はこれで。これからも繁盛を祈ってますよ」 一礼し、くるりと引き返す俺の背中に、 「―――でさ、誰に当たったの? 指輪」 雇い主からそんな言葉が投げ掛けられた。 「っ!?」 弾かれたように振り返る俺に向かって、カプリチオの性悪狸はニヤリと笑う。 「……っ、知ってたんですか」 「まぁね。食品衛生の面からは反則だけどなかなかいい話題作りだわ。 『クリスマスプディングの代わりにカプリチオのクリスマスマフィンはいかが? どれかひとつにこっそり指輪が入ってるんだって』。 真偽は確かめようがないし、やっぱり夢があるよね。 ……でも、出来れば保健所からの電話は受けたくなかったなぁ」 ピクリと顔色を変えた俺に向かって、くすくすと笑い出す。 「……すみません。噂流した時にはそこまで広まるとは思わなかった」 「結果オーライよ。それはもういいからさ、質問に答えてよ」 「―――質問?」 意味がわからなかった。質問? 俺、今なんの話をしてたっけ? 記憶を辿る。今日した会話の中で質問らしい質問なんて…… 『―――でさ、誰に当たったの?』 ――― ………! とっさに悠里を振り返る。俺に向けられた苦い笑い。 まさかあの質問は、俺の流した嘘を揶揄したものじゃなくて。 「………あー、俺です」 「あっはっは、よかった。狙い通り」 俺の流した噂を知ったこの人は、こっそり本当に指輪を仕込んでいたのだ。―――売り物として扱われない、藤原家用のマフィンのひとつに。 「藤原くん、来年もお願い出来る?」 「また保健所からラブコールされてもいいのなら、喜んでね」 店を出た直後、少女の左手に輝く銀色に、ため息が漏れた。 どこか安心したような、つまらなさに落胆したような、不思議な心境。 「―――俺か、お前に指輪やった物好き」 「……わかってんだと思ってた」 呟く声に、今朝の言葉が蘇る。 『これ、昨日もらったヤツ』 なるほど。確かにそう取れないことはない。 あれは誰かにもらった指輪だと説明する言葉じゃなく、指輪なんて柄にない彼女が言葉少なにした当選の報告。照れ笑いながら言った、とても控えめな礼だったのだ。 ……残念ながら、全然、さっぱり気が付かなかったけれど。 そりゃそうだろ? 指輪が入っている可能性がゼロだと確信を持って否定出来たのは、この町で唯一、噂を流した張本人である俺だけだったんだから。 「似合わないのはわかってるけど、せっかくだから今日一日くらいはつけとこうかなってさ」 幸せになれるらしいから。 そんなことを言いながら、彼女は左手を太陽にかざす。 風は相変わらず冷たいけれど、雪はもう随分溶けている。 ぬかるんだ道を歩きながら、眩しげに指輪を見つめる彼女の横で。 俺はわずかに舌打ちをした。 ――― クソ。 気に入らない。 情報操作したはずの俺が、結果的にひとり踊らされてたって事実が。 傍らの穏やかな微笑みを、―――ぶち壊してやりたくなるほどに。 クスリと。 今、確かに、吐息のような笑みが隣の男からこぼれた。 気になって、チラリと流し見ると、 「ずっとつけとけ。よかったな。これで心配しなくて済む」 どこか笑いを含んだような声で、そんなことを言われる。 意味がわからない。 「……あ? 心配?」 見下ろしてくる目は、明らかに嘲笑している。 「お前さ、『幸せになれる』ってどういうコトかわかってる?」 「は?」 なんて居心地が悪い空間。私だけが正解をわからずにいる。 『幸せになれる』がどういうコトか? 言葉のままの意味以外に何が? 眉を寄せっぱなしの私に、公隆はにっこりと微笑んで、 「おめでとう」 細めたままの目で、告げた。 「―――早く結婚出来るらしいぜ? よかったな、チチなし」 振り下ろした拳は予想通りとばかりにあっさりとかわされ、少年は笑いながら濡れた道を駆け出す。 「っ、余計なお世話だ!」 際限なく拡がる青空の下。 指から抜いた銀色は、太陽の光を浴びて白く輝きながら、公隆の頭に命中した。 コメントへ>> |